感謝の気持ちが分からない

朝から卵焼きを作って食べる。卵焼きは美味しい。贅沢な時間だ。
卵焼きの作り方を教えてくれた両親と暮らしていた子供の頃に思いを馳せる。卵焼きを作って食べる、そのひとときは幸せな思い出だった。
あの時間が再び訪れることは無い。一人暮らしの私がこれから毎朝卵焼きを作って食べる習慣を身につけたとしても、これから親元に戻って両親と一緒に卵焼きを作って食べる機会があったとしても、懐かしい過去が戻ってくるわけではない。これから作る卵焼きは、懐かしい思い出ではなく、常に新しい幸せでしかない。その新しい幸せも、きっと長くは続かない。
朝から卵焼きを作って食べる、その喜びを享受できる背景には、いくつもの要素がある。私が卵アレルギーでないこと、私に卵焼きの作り方を教えてくれる両親がいたこと、好きに卵を買えるだけの収入があること、台所のある家に住んでいること、在宅だから家に居られるけど勤務だから朝起きていなくてはならないこと。
いろいろな要素が組み合わさって、朝から卵焼きを作って食べる、そういう贅沢な時間を過ごすことができる。有り難いことだと思う。有り難い、と書いたけれど、感謝ということとは違うと思う。ただ文字通りに、なかなか簡単に有ることではない、というニュートラルな気持ちだ。いや、それが感謝ということなのだろうか。
珍しいものに対する感情とは得てしてそんなものだろう。贅沢な時間だとは思うけれども、なくてはならない時間ではない。もう二度とそのような時間を過ごせないのだと言われても、そうか、と淡白に受けとめることができそうである。なくなっては困ると執着してしまうものこそ、むしろ有り難いと思っていないのではないか。有り難いと思っていないから、失うまで気づかないのである。例えばどんなものがあるだろう、と考えてみるが、こうして考えたくらいで思いつくようなものは、なくなっても困らないものなのかもしれない。