不要不急の外出の定義が分からない

夜桜見物をした。
目黒川の傍にある職場を後にして駅へと向かう道すがら、満開に咲いた桜に目を奪われ、そのまま誘い込まれるように並木に沿って歩いた。桜の花は歳を取るごとに美しくなる。一年前に同じ場所で見た桜、学生時代に哲学の道で見た桜、子供の頃に祖父母に連れられて見た桜。花に導かれて鮮やかに思い出されるいくつもの情景と数多の感傷が、目の前の花弁をこんなにも輝かせる。
この道の桜は、私が幼い頃から慣れ親しんだ桜のある風景とはまた味わいが違う。桜の幹や枝はもちろんのこと、遊歩道や人工芝、街灯に至るまで整備が行き届いており、背後に林立するアーバンなデザインのオフィスビルともマッチしたハイソな趣を醸し出している。見事に大輪の花をつけた枝ぶりを見上げながら歩いていると、折しも不要不急の外出を控えるよう呼びかけられている最中にあって、ベンチで密やかに酒盛りをしたり、寄り添って佇んでいたりする男女の姿が目立った。
先の三連休では、一時の自粛ムードはどこへやら、花見の定番スポットは多くの人出で賑わったという。かくいう私も代々木公園での桜見物に小一時間ほど散歩した。あの日目にした浮かれた宴会の大半は、単なる毎年の恒例行事に過ぎず不要不急とは程遠い花見だったかもしれないが、その中の誰かにとっては、人生で一度きりの何物にも代えがたい大切な花見だったかもしれない。

不要不急の外出という表現はとても曖昧で、判断に迷ってしまう。重要とも緊急とも思えない仕事のために出社すること、休みの日に遊興のために外出すること、抜歯後の経過観察のために歯医者に通うこと、自宅で食事を作るための食材を買いに出かけること、冠婚葬祭に参列して皆と飲食をともにすること、一人で簡単に食事をとるために飲食店に行くこと、どれが必要でどれが不要かをひとつひとつ判断しなくてはならないとなると大変な労力を要する。また、自粛の期間に明確な定めが無く、今後さらに厳しく外出を制限される可能性も考えられる以上、安易に延期という決断をするのも不安が伴う。そもそも私が生きていること自体に重要性も緊急性も無いと考えると、生命維持のために食事をとる行為も、絶対に必要であるとは言い切れない。
ただ、個々の判断に委ねられているという状況は、ある意味ではありがたい。ある行為が自分にとっていかに必要不可欠であるかを声高に主張して権力者を納得させる手間を負わなくとも、自分にとって必要だと思えば、自分自身の価値観に従って外出したり、外出を自粛したりできるからだ。
自粛要請に従わないひねくれ者は、善意か悪意かは置いておいて、自分の意志に基づいて行動するから迷わない。迷ってしまうのは主に、「自粛しろって言われたから」素直に自粛しようと考える人々であろう。分かりやすい指示を出しさえすればその通り行動することが期待できるはずの人々を、曖昧な指示によって戸惑わせてしまうのは至って効率が悪い。個別具体的な外出の事例を挙げればきりがないだろうが、せめて、ある行為が不要不急と言えるかどうかの判断軸を提示したほうがよいのではないだろうか。つまり逆にどんな目的なら必要な外出と言えるのか、といってもいい。「生命維持」なのか「健康維持」なのか「経済的安定」なのか「自己有用感の維持」なのかは分からないが、どのあたりまで欲求を満たしてどのあたりから我慢するかという指針すらも曖昧なままでは混乱を招くばかりだ。とはいえ、そんな抽象的なラインを設定するのも難しいだろう。どうすることが妥当なのかは、現時点ではきっと誰にも分からない。