努力至上主義が分からない

転職したいなあと思って、どうせなら手に職つけたいなあと思って、クラウドワークスのwebライティングの求人を見て、面倒臭そうだし作文苦手だし寝る時間が減るのは難しいなと思って何も応募しないでページを閉じた。という行為をするのはこれまで2〜3度目な気がする。クラウドワークスは会員登録しなくても求人が見れるのでこういう思考を辿りがち。無気力人間な私のくせに定時で帰れない仕事をしながら副業なんてできるわけないだろ、とセルフツッコミ。

努力をしていないことに対する不安、のようなものがある。努力をすれば必ず報われるというわけでもないだろうに。確かに私には、これまで何かを努力した分かりやすいエピソードがない。中学の部活は半年で辞めてしまったし、受験勉強もそれほど苦労しないまま突破してしまった。大学のサークル活動はのんびりしたものだったし、アルバイトは軽いものしかしていない。だから就活で語れる努力したエピソードがなくて、面接には苦労したうえに良い思い出がない。
それでも私は嫌いな面接を受けたし、特に入りたくもない会社の内定を取り、その会社で週5プラスアルファで労働を続けてもうすぐ3年にもなる。週5で働いているという点だけでも十分努力を認めるに値するのではないかと思うのだが、私自身がその程度では努力と認めてくれないのだ。巷にはもっと頑張っているエピソードが溢れている。もっと労働時間の長い人も、働きながら結婚や育児などをしている人もいる。そういった人たちを顧みると、私は確かに努力が足りないようにも思える。
同じ学校の同じクラスの中でも、不登校になる人と、ならない人がいる。不登校になる人は、努力が足りないのだろうか。私の場合、小学校は大嫌いだったが、母親に引きずられるようにして登校させられたので、不登校にはならなかった。不登校になった人より私のほうが努力していたと、言えるのであろうか。

努力の量を人と比べても仕方がないと思う。成果を比べるならまだしも。しかし、個人単位で成果を測るのも難しい。
努力さえしていれば、「努力をしていない不安」からは逃れられるのかもしれない。では何を努力しようかしら。手っ取り早いところで、仕事?今の仕事で努力したところで、たちまち「こんなに意味のないことに時間と労力を費やしていていいのか」という不安に襲われるのが関の山だ。

結局何をしても将来は不安なものだ。それを、自覚している自分の弱みに基づいて「努力していないから不安」「恋人がいないから不安」などと理由付けしているのに過ぎない。

さっき見たwebライティングの求人の中に、「江戸川乱歩の名言で救われたエピソードを1000字以上でお願いします」というものがあった。江戸川乱歩は小説しか読んだことがなかったので、名言ってどんなものがあるんだろうとググってみた。いくつか出てきた中で、これはと思った名言で、この文章を締めようと思う。

「孤独に徹する勇気もなく、犯罪者にもなれず、自殺するほどの強い情熱もなく、結局偽善的(仮面的)に世間と交わって行くほかはなかった。」
江戸川乱歩『我が青春記』